ジャカルタ・ドライバー考(最終回)
インドネシアに交通秩序がない、という見解は交通法規をベースに交通事情を見ているために生じるものであり、その規準をすべて取り払ってみれば、人間として誰もが理解できるきわめて単純な原理が実はインドネシアの交通秩序を成り立たせているのだということが見えてくる。この状況は先にも書いたが、行政法規がインドネシアの社会秩序を成り立たせているものではなく、別の目的とロジックを持つ社会生活規範が主力をなしている状況とうりふたつなのである。住民管理をはじめとする政府の行政管理が国民の管理統制を行えておらず、国民は建前としての行政法規、本音としての社会規範のはざまで、ダブルスタンダードの中に生きている。
ハンドルを握ると人が変わる、という言葉は日本でもよく耳にする。そして興味深いことに、あれほど人をもてなすことに意を用いるインドネシア人も路上でハンドルを握ると別人に変身する、という印象をわたしたちに与えてくれる。路上は人をもてなす場ではないのだ、と説明するインドネシア人もいるが、他人と接する場であれほどの礼節、もてなし、優しさ、思いやりを示すインドネシア人が、ハンドルを握ると一変して野獣に変わるという声は大きい。
この現象はインドネシアにだけあるのではなく、どこの国にもハンドルを握って車を走らせると人格が一変する人はいるものだ。インドネシア人が極端に思えるのは、そうでないときとの落差が激しいせいだろう。仕事の関係で知り合った人や隣人の家を訪問すると、始終にこにこと笑顔を見せ、痒いところにまで手を届かせてもてなしを示してくれるかれらと、路上にあふれるジャカルタ・ドライバーたちのふるまいとの間に共通項を見出すのは、わたしには不可能としか思えない。
その要因のひとつとして、人間と人間が接する場で発現する人としてのあるべき姿勢が、自動車に対したときに発現しないということが考えられる。自分は自動車の中にいて外を見ているのだが、四周にいる自動車は機械なのである。その機械も人間が意思を持って操作しているのだということは頭の中で理解できても、それは人間の姿をしていないのだ。だから周りにいる自動車は機械が意思を持って動いているという印象をそれぞれの運転者に与えたとしてもなんら不思議なことではない。そうであるがために、人間に対しては優しさや思いやりを示す習慣を身に付けてはいても、機械に対してそれを行うということが自発的には出てこないのではないだろうか。社会がそのような価値観を持つことによって社会構成員がそのような習慣を教育されるのであって、だからそれは、インドネシアの世の中にまだそのような価値観が成育していないということを意味しているに過ぎないのではないだろうか。
そんなジャカルタの交通事情の中で、ジャカルタ・ドライバーたちに伍して巧みな運転技術を身に付けようと切磋琢磨されているあなた。あなたがひとかどのジャカルタ・ドライバーとして都内で堂々の走りを展開し、路上を闊歩できるようになったとき、ほかの国へ行ってまだハンドルを握るにふさわしい運転者であり続けることができるのかどうか、わたしにそれはわからない。
わたしのこれまでの見聞を思い起こせば、いずこの国のひとにとっても異文化への適応は、勧められ、推奨され、賞賛されることがらとされているのだが、そのような価値観がいつでもどこでも真理であるという見方に対してわたしは疑いを抱き始めている。[
完 ]
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