インドネシアジャカルタの風俗・社会現象ルポ

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現代インドネシア 1001景
(2006年7月3日)
「エルファ(上)」
エルファ・セシオリア。インドネシアの音楽シーンになじんだひとは、きっとこの名を耳にしたことがあるに違いない。一番手っ取り早いところでは、男ふたり女三人の混声クインテットボーカルグループElfa's Singer がかれの名前を冠している。

1959年2月20日、西ジャワ州ガルッ(Garut)に天才少年が生まれた。地元音楽愛好者たちを驚かせたのは、まだ8歳の少年が大人に混じってジャズ演奏に加わっている舞台を目にしたときのこと。エルファの父親は憲兵が職業だったが音楽でももうひとつのわらじを履き、誰かが鳴らす楽器の音が一日中自宅に絶えることがなかったという。父親は今でいうダンドウッの前身であるオルケスのリーダーで、母はその歌手だった。生後そんな生音楽を子守唄に聴く環境に育ち、もの心ついたときには家の中にごろごろしている楽器に早くも親しみ、5歳になったら父親から音楽の手ほどきを受けた。8歳でジャズのステージに上がり、そのあとはジャズトリオを組んで即興演奏の腕を磨く。小学5年生でバイブとオルガンを始め、またバンドンの陸軍シンフォニー楽団に参加した。当時の楽団員は月給12,500ルピアと米の現物30キロを与えられたので、毎月職員がベチャに乗ってエルファの家までそれを届けに来た。

Elfa Secioria という名前をはじめて目や耳にした人はかれがインドネシア人でないような印象を受けるが、かれは歴然たるスンダ男児。エルファは帝王切開で産まれた。そのときのドクターの名がエルサで、誕生月はフェブラリー。それらのパーツが合わさってエルファ・セシオリアという名が付けられた。陸軍シンフォニーオーケストラでかれが受け持ったのはバイブとティンパニ。シンフォニーの下支えをする場所からかれは音楽構成の基礎を学んでいった。かれは教室で音楽を学んだことがない。毎日の音楽生活がかれにとっての学校だった。1974年からかれは父親の率いるソネタ47と称するジャズコンボに加わり、そして1978年にバンドンでエルファズシンガーを設立する。当時バンドンではポップシンガーコンテストが催され、優勝者は国営ラジオ局RRIが開催するビンタンラジオ(Bintang Radio)の全国大会に出場できた。ビンタンラジオを目指したこのグループは、その後催しが立ち消えになったが解散することなく継続し、いまや5代目だそうだが依然としてミュージックシーンで活躍している。

1978年以来数々の国際音楽フェスティバルに出場して何度も受賞を重ねるという誇るべき履歴を輝かせる一方で、かれは1981年にエルファミュージックスタジオをオープンした。今やジャカルタ・バンドン・ブカシ・ボゴール・ガルッなど国内の数都市に13ヶ所のスクールを開いているエルファミュージックスタジオは1千5百人の生徒を擁し、数多くの新進歌手を世に送り出してきた。ヤナ・ユリオ、リタ・エフェンディ、ルツ・サハナヤなどそうそうたる顔ぶれがかれの教え子なのである。かれのアレンジャーとしての才能も1982年に東京の日本武道館で開催された世界ポピュラーソングフェスティバルで見事に証明された。そのときかれは、インドネシア代表曲のアレンジャー兼コンダクターとして舞台に上がったのだ。毎年エルファはオーケストラやコーラスを率いて世界に出て行く。韓国はエルファの率いるオーケストラを国内の諸都市で公演させるという10年契約を結んでいるそうだ。そんな中にコーラスの世界オリンピックというものがある。次回はその苦労譚をご紹介しよう。

(2006年6月29日)
「続々財産不倫」
いま45歳のモニクは結婚して20年になる。ふたりの子供はもうハイティーンだ。建築業を営んでいる夫はごく最近まで豊かな暮らしを家族に味合わせてくれた。家族はみんな、そんな暮らしがいつまでも続くものと思っていた。ボゴールの大邸宅に住み、大勢使用人を使い、外出するときはBMWやベンツの最新型で。

結婚した時、モニクは夫が経済状況をあからさまにさらけ出してくれるよう希望した。しかし夫は正直に言おうとしない。「自分は家長として家族の生計に責任を持つことを約束する。生活の需要は必ず満たしてあげる。妻は安心してついて来れば良い。夫の経済状況などいちいち詮索しなくて良い。」

夫は自分の言葉通りに証明して見せた。通常の生計費に加えてモニクが家族のために必要な出費を求めると、金額がいくらであろうと夫はその金を渡してくれた。自分も普段からブランドものの衣服を身につけ、ゴルフに凝り、使う自動車も新車が出るとそれに乗り換えた。家庭のために高額な品物を惜し気もなく買った。クリスタル製シャンデリア、宝飾品、数千万ルピアもする家具・・・子供たちの教育にも金を惜しまなかった。英語教育を行う有名私立小学校に、ひと月3百万ルピアを払って通わせた。そんな黄金時代が十数年続いたが、没落は急速にやってきた。二年程前から夫は新車を一台また一台と売り払い、中古車に買い換えて行った。モニクが夫に事情を尋ねないわけがない。しかし夫はまだすべてを打ち明けようとしない。「ビジネスというものは、上がり下がりの波があるものなんだよ。」

そうしてある日、いま住んでいる大邸宅を明渡す段取りの話し合いに銀行から人がやってきたとき、モニクはショックに打ちのめされた。こうして一家はそれまでの豊かな暮らしに別れを告げ、親族の家に間借りする道をたどった。夫が使っていた15枚のクレジットカードのすべてにわたって巨額の借金が残り、それまで買い集めていた高価な家具や宝飾品などを安い価格で手放すことになる。それでさえ借金の穴埋めには十分でなかった。モニクはそんなありさまに、経済的な実態を隠し通してきた夫に対する不信を抱き、自分は夫の何だったのかと悔やし涙にくれた。頭にきたモニクはクレジットカードの請求明細を調べた。そしてゴルフ代やビジネス相手に対する接待が支出のほとんどを占めていることを知った。ホテル代、飛行機代、外国ツアー等々。

没落した一家の生活はがらりと変わった。もはや自家用車はなく、どこへ行くにも公共交通機関を利用する。買い物も自由にできないし、人に誘われてアリサンに参加することも滅多にできなくなった。おまけに外出すると、デットコレクターに捕まらないだろうかとどきどきする毎日。しかし良かったこともある、とモニクは語る。夫があれ以来、自分の経済状況をすべてあからさまに自分に話してくれるようになったそうだ。

今回が最終の一連の財産不倫エピソードはコンパス紙に掲載されたものだ。財産不倫行為が悪徳であるのは経済状況を相手に知らせない、つまり秘密をそこに置いたりあるいは相手に隠して経済行為を行うからだ、という視点がそれらのエピソードを読んでいて強く感じられた。今回のモニクの例だと、夫が経済状況を最初からあからさまにしていればモニクの運命は変わったのだろうかという疑問が残る。だから経済的没落そのものが悪いのでなく、モニクをつんぼ桟敷に置いた果てに没落のショックを与え、夫婦の精神的紐帯を危ういものにした点が非難されているようにわたしは感じるのだが、読者のみなさんのご感想はいかがだろうか?この価値観は言ってみれば、たがいにすべてをさらけ出して良い時も悪い時も協力し合うのが夫婦のあるべき姿というインドネシアの理想的夫婦観をベースに夫婦が相手のことをすべて知っているのが愛情と理解と尊敬に満ちた健全な家庭を作る前提条件であって、夫婦の経済的安定や繁栄は二の次の問題であるということを意味しているようだ。

われわれは正邪善悪を置き去りにして貪欲に金を手に入れようとするこの地にひとびとの姿を常日頃目にしているが、その実態と上の価値観の矛盾をお感じになるインドネシア経験者も多いにちがいない。だがよく注意して見ると、かれらの多くは金を湯水のごとく使うために貪欲に金を求めているようにわたしには思える。つまり経済的に裕福な姿を他人に、あるいは共同体の中で、見せることを目的にしているようにわたしは感じるのである。経済的没落が世界の終末ではないとばかり、貧しい生活に落ちてもあっけらかんとした姿で明るく生きていくひとびとをわれわれも目にしているではないか。インドネシア文化の中にある価値観が外国人の持つものと大きく異なっていることをわれわれは理解しなければならない。特にインドネシア文化の中に浸って生活している、あるいはこれからそうしようと考えているひとびとにとって、そのような認識を持つのは重要なことではないだろうか。夫婦の間でプライバシーが場を得、更にはそれを夫婦の周囲にいる人間も一緒になってリスペクトしてくれる環境が成立するのはまだまだ先のことだろうということも含めて。

(2006年6月26日)
「続財産不倫」
4年前、三十歳で結婚したベルナデッタも財産不倫体験者だ。愛称をエタというかの女はコンシューマリズムに金銭感覚を狂わされたわけではない。エタは夫に内緒で自分の母親と弟に経済援助を与えていたのだ。インドネシアで一般的な価値観を実践する普通の夫婦であるエタと夫は、互いに総収入をオープンにさらけ出していた。ふたりの月収を合わせると1千3百万ルピア近い。家計管理はエタが行うことで夫も了承した。だからエタが毎月自分の母親に150万ルピアの仕送りをしていることを夫は知らなかった。エタの財産不倫はその150万ルピアだけでは済まなかった。自分の母親が何も言って来ない場合だけ150万で、それはミニマム金額と言ってよく、何か要請がくればもっと大きい金額になったし、母親からあれがいるこれがいるという話が来ない月の方が少なかった。弟が商売の元手を必要とした時など、4千万ルピアが弟の口座へと振り込まれて行った。そんな巨額の金が夫婦の口座にあったわけではない。

銀行から借りた金を返済するため、今度は毎月180万ルピアの支出が上乗せされるようになった。火の車になった家計を苦労してやりくりしていたエタに夫が切り出した。「今の借家暮らしをやめて家を買おう。頭金にできる金ももうだいぶ溜まったんじゃないか?月賦返済額も楽になるはずだ。」だが頭金にできる金などほとんど溜まってはいない。エタは言を左右にして夫の希望を先延ばしさせようとこころみたが、夫は強情に自分の希望を言い張る。エタは折れて、夫の言うがままにまかせた。夫が必要とする金をエタはなんとか工面したが無限に借金ができるわけではない。住宅ローンの月賦支払のために、買ってまだ1年しないオートバイをエタは売った。夫は首をかしげた。その数ヶ月後、こんどは四輪車を手放さざるをえなくなった。そしてとうとう隠しおおせなくなったエタは、事の真実をありのまま夫に告げざるを得なくなった。ふたりの総収入の半分近くがエタの親族に渡されていたことを知って、夫は愕然とした。「自分のファミリーを助けるのは当たり前のことじゃない。」エタはそう自己弁護したが、夫は程度問題だと言う。家長として子供を含めた自分の家族の生活設計を進めていく義務があると感じている夫は、妻がそれをサポートしないことに怒った。「母さんがあたしを産んで、女手ひとつでここまで育ててくれた。あたしは母さんの頼みを断ることができません。子供が親に恩返しするのは当たり前のことでしょう。」しかしエタの主張を夫が受け入れることはなかった。滅多に起こらない夫婦喧嘩が爆発し、時間が緊張を解きほぐしたが家計管理はエタへの一任から共同管理へと変更された。

その出来事の後、夫との関係にしこりが生じてエタの心は晴れなくなった。自分の親族と夫との間で板ばさみとなったエタの心に重いプレッシャーが載り、そのストレスを発散させるためにエタはショッパホリックになってしまった。華やかなモールに飾られた高級品を買うとき、普段エタの心を覆っている憂鬱がカラリと晴れるのだった。買い物資金はどうしたのか?クレジットカードだ。返済はどうするのか?夫とふたりの共同資金を回すのは難しい。だからエタは会社から頻繁に与えられる業務出張の経費をやりくりし、余らせた金をカード返済に充てたが、収支はバランスしなかった。そしてある日、ローン支払の終わっていない自宅をデットコレクターが訪れ、夫ははじめてエタが個人で返済しきれない債務を抱えていることを知った。

(2006年6月22日)
「財産不倫」
パトリシア37歳は結婚するまで、自分の個人生活における会計管理はきちんと行っていた。民間会社に勤めて月給250万ルピアを得ていたかの女は、家賃ひと月50万ルピアの家を借り、必要に応じて家電品を買い調えるだけの収支管理を行うことができた。普段の食事は屋台で済ませ、モールで食事するのは三ヶ月に一度という生活もたいして苦にならなかった。そんなかの女の金銭感覚が、結婚を境にがらりと変わってしまった。衣料品ビジネスを営む夫は多すぎるほどの生活費を毎月パトリシアに渡してくれる。じゃあわたしの給料は全部自分の好きなものを買うのに使えるじゃない!かの女の足が屋台に向かうことはもうなかった。

「夫はわたしに渡した生活費が何に使われているのかをチェックしたことなど一度もありません。『ビジネス資金の足しにできるから、残ったお金は貯金しとけよ。』とは何回も言われたけど、わたしは『はいはい』って言うだけでした。だって残ったお金なんか1ルピアもなかったんだもの。」毎月パトリシアが手にする1千万ルピアの金でかの女の金銭感覚は狂ってしまった。自分に買えないものは何もない。買うんだったら高くても最高の物を。今月分を使い果たしたって来月また手に入るんだから。しかし『翌月まで待てば』などという殊勝な気持ちもパトリシアの心からどこかへ消し飛んで行った。欲しい物が自分の心に出現したら、今すぐそれを手に入れなければ気が済まない。惜しげもなく大金をはたいて最高級品を次々と買って行く。現金がなくなると、今度はクレジットカードが使われ始めた。7百万ルピアのガスレンジ、ジャンボサイズ冷蔵庫、大型フラットスクリーンTV、高級乗用車・・・・・

パトリシアの夫は妻に「店を出してみないか?」と言って資金を用意してくれた。パトリシアの専門分野はコンピュータインストラクターだったので、かの女はコンピュータアクセサリー用品ショップを開店したが18ヶ月で倒産した。事業失敗の後悔も未練もパトリシアにはなかった。ビジネスなんかやってるよりも遊んでる方が楽しいじゃない。毎日高級品を見て回り、欲しい物を買い、美味しいものを食べ、気の会う友人たちと遊んでいれば、それが最高の幸せよ。

だがクレジットカードの分割請求がひと月8百万ルピアに達したために、一番ポーションの大きい自動車の分割返済をパトリシアは四ヶ月も滞納してしまった。借金取立人がやってきて、パトリシアの異常な消費行動がついに夫の目の前に暴露された。うすうす感づいていた夫は、仕方なくその支払を処理してくれた。「支出は収入とバランスが取られなければならない。それを忘れたら駄目だ。もし値の張る買い物をする場合は、買う前に打ち明けてくれないかな。」夫にそう意見されたパトリシアはまた「はいはい」を繰り返すだけだった。
しかし習性となった行動を正すための自制心もパトリシアの欲望を制御することができなかった。こうして別の借金取立人が再び自宅にやってくるようになった。ある夜、取立人が4人も別々に自宅にやってきた。パトリシアは夫にかれらは友人だと嘘をついた。しかし話し合いがこじれて取立人が暴れはじめたために、かの女は夫に助けを求めざるをえなくなった。夫はパトリシアに愛想をつかした。消費狂いの妻に破産させられた夫はどこかにいただろうか?ビジネスマンの夫はアブナイ妻よりも自分のビジネスを選択した。二年間の結婚生活の果てにパトリシアを待ち受けていたのは離婚。

いま、家賃ひと月25万ルピアという狭い路地裏の下宿にひとりで暮らしているパトリシアは、後悔の涙なしに結婚時代を思い返すことができない。上で見たパトリシアの行動が実はインドネシアで財産不倫(selingkuh harta)と呼ばれるものだ。TTMは男女関係の不倫なので夫婦のひとりが別の相手を求めて犯すものだが、財産不倫も夫婦のひとりが共同財産を勝手に使うというものであり、そのいずれもが不倫という名を与えられているのは夫が妻に隠れ妻が夫に内緒で行うという点で一致しているからだろう。その双方が不倫と位置付けられている事実からわれわれは、インドネシア文化では愛情関係と経済問題が家庭生活の中で同じウエイトを持たされているのだという新たな認識を抱くことになる。不倫も財産不倫も同じように健全な家庭に崩壊をもたらすものとインドネシア人は見ているのだ。

インドネシアで結婚生活の理想像は、夫婦が互いに相手を唯一無二の生涯の伴侶として尊重し、秘密や隠し事を一切持たず、喜怒哀楽を共にし、一心同体で、云々云々・・・・・・というもので、その伝で行けば夫婦間にプライバシーは成立しない。インドネシア文化の中の人間関係は相手にべったり関わりあおうとする傾向が強く、それが一面ではあのインドネシア人の人なつっこさを生んでいる。社会生活の中ではそんなありかたがポジティブに位置付けられているために、人間関係に距離を置こうとするとたいていの場合ネガティブな感覚を生じさせることになる。もちろん他人を尊重するという価値観も存在していて、その意味合いから他人との間に一線を画すという礼儀がないわけではないものの、それは相手のプライバシーつまり個人の秘密を尊重してそれに触れないで置こうという配慮とは異なっている。プライバシーを尊重する姿勢はあまり成育しておらず、生活共同体の中ではむしろ反社会的な価値観が置かれているようだ。自分のプライバシーを守るよりは自分をあからさまに他人に対してさらけ出すことで人間としてのつながりが強化され、信頼関係が打ち立てられるというのがインドネシア社会なのである。会社の中で人事評価や全社員の給与額がすべて筒抜けになっているのは、そのような社会的価値観に由来しているにちがいない。ましてや夫婦は互いにすべてをさらけ出して当然の関係であるため、その間で秘密や隠し事を持つのは罪であり悪行であると位置付けられる。不倫という言葉が登場してくる所以なのだ。

夫婦間で特になんらかの契約や約束がなされていない場合、夫婦の収入は共同の財産であるため相互承認が支出の条件となる。そのとき夫婦のどちらかが相手の承認なしに金を使えば、利益享受者がその相手以外のだれであろうと財産不倫が発生する。夫が給料全額を妻に渡して家計を管理させ、自分は毎日小遣いをもらうことでよしとしている家庭で妻がパトリシアになったとき、はたして夫のあなたはどうするだろうか?次回も財産不倫のエピソードをご紹介しよう。

(2006年6月19日)
「ドリアンと中卒女性実業家」
ドリアン。好きな人にはたまらないものだが、嫌いな人にとってもたまらないものだ。ドリアンにもさまざまな種があり、一番人気の高いのはきっとタイ原産のモントン種だろう。クリーミーな果肉は口の中でとろけるようだ。ドリアンの生産国であるインドネシア市場にタイ産モントン種を持ち込んだのはいったい誰なのか。1960年2月23日北スマトラ州プマタンシアンタル(Pematang Siantar)生まれのイエニー・タニアがそのひとだ。

1990年代半ば、都内に果物専門店が続々と店開きした。1994年にオープンしたTotal Buah Segarの店にエキゾチックフルーツを並べていたかの女は、果物の王様ドリアンの中の王様であるタイのモントンをコレクションに加えようとした。それまで、ジャカルタにモントンがなかったわけではないが、売っている店は限られ、そして数量も限られていた。一般にドリアンと言えば、ランプン、パルン、あるいはメダンなどの国内産をほとんどの消費者が買っていた時代だ。タイでドリアンの収穫期は5月から8月。その時期、かの女はドリアンを買付けにタイを訪れたが、輸出業者はみんなインドネシア向けは無理だと言って興味を示さない。かれらの知識では、インドネシアで輸入ドリアンはきわめて高価で需要が小さく販売網も限られているため、将来大きいビジネスになりそうもないとの先入観を抱いているのだ。イエニーは結局香港のディストリビュータから5百キロを回してもらうことに成功した。しかし消費者にまだなじみが薄いことから、初回ロットはそんな量ですら完売できなかった。次の収穫期にかの女はもう一度挑戦した。今度はコンテナ一本分を輸入し、それで大々的なプロモーションをかけてみるのだ。広告垂れ幕やのぼりを路上に立て、メディアにも売り込んだ。新聞雑誌に記事が載り、好奇心を抱いて店を訪れた消費者はメダン産ドリアンより安い輸入ものと対面する。

作戦が図に当たり、輸入量が激増した。個人消費者ばかりか、都内一円にあるショッピングセンターの生鮮食料品部門からもオーダーが入るようになり、今では収穫期になるとドリアンを満載した数十本のコンテナが毎月輸入される。他にもキウィ、チェリー、ピーチ、プラム、ネクタリンなどエキゾチックフルーツのインポーター兼サプライヤーとしてかの女は果物ビジネスの地歩を固めている。何百億ルピアもの資金を運用して巨額のビジネスを行うイエニーの学歴が中卒でしかないことを聞いて驚かないひとはいない。果物ビジネスに参入してそれを大きく育て上げる以前、かの女は南ジャカルタのパンリマポリムラヤ(Panglima Polim Raya)通りの店舗とカサブランカ(Casablanca)通りにあるモール内店舗でレーザーディスクやVCDのレンタルビジネスを営んだことがある。しかし知的財産権侵害の海賊版が野放しで横行していた当時、レンタルも海賊版を使うのが常識で、高価なオリジナル版を使ったイエニーのビジネスが価格競争力を持てるわけがなかった。そんな苦い経験を持つかの女が次のビジネスとして思いついたのが果物。家族みんな果物が大好きで、その品質を見る目はだれにもひけを取らない。そして果物には海賊版もニセモノもない。品質が劣化したら客に売らなければよい。こうして1994年、パンリマポリムにあったVCDレンタルショップの看板がTotal Buah Segar という名に書き換えられた。最初の資本金は5億ルピアだったが、年を経るごとに追加されてその後数十億にまで増加した。カサブランカのモールにあったビデオレンタルショップも果物屋に変わった。イエニーの果物ショップはアッパーミドル層の人気を集め、品質の良い珍しい果物が妥当な価格で手に入る店として知名度も上がった。

ところが好事魔多し。1997年にクリスモンがインドネシアを襲い、ルピアの暴落で輸入果物の売値が数倍に膨れ上がった。仕方なく輸入をあきらめてローカルフルーツを商わざるを得なくなる。イエニーはトータルブアスガルの商権を甥のルディに譲り、ルディはスリピ(Slipi)に店を出す。それ以来ファミリーの果物ビジネス希望者が分店の許可を求めるようになり、今では首都圏に10店以上の販売網ができた。ではイエニーは果物ビジネスから方向転換するつもりになったのだろうか?いやそうではない。かの女は自分が築き上げたブランドをファミリーに譲った後、ふたたび果物屋の新ブランド発足に向かったのだ。学校時代の友人でジャカルタで一流弁護士となったイマン・シャプトラとの共同出資で、All Fresh なるフルーツショップを新規オープンしたのである。立ち上げはパンリマポリムとカサブランカの店が使われた。その後ガトッスブロト(Gatot Subroto)通りに三号店をオープンし、2005年にはクラパガディン(Kelapa Gading)に四号店を開いた。新店舗は大きくそしてモダンだ。そんなフルーツビジネスの発展を横目に、イエニーは更に別のラインのビジネスを始めた。Jaspaと名付けたファミリーフィットネスセンターをカサブランカ通りにオープンしたのだ。成功した女性実業家のひとりであるイエニーはそのビジネス哲学を語る。「わたしは高学歴サーティフィケートなど持っていません。ビジネスを行いながらお客さんからさまざまなことを学んで来たのです。消費者に満足してもらうにはどうすればいいのかということを。先入観を抱かず、しかし意欲と確信を持ってビジネスを行うことが重要なのです。完璧なセオリーなどなくても大丈夫。とてもシンプルなことだけで十分なのです。つまり小額であっても利益を出すということ。」これが農民スタイルの事業経営なのだ、と謙遜しながらイエニーは微笑む。

(2006年6月15日)
「ドリアン!」
ドリアンの巨木を背にして、道端にドリアン売りがしゃがんでいる。ドリアン売りの前にはドリアンの実が山なり。
そこへ行き合わせた男、根っからのドリアン好きでシーズンになれば女房を質に置いてでもという人間だから、うまそうな匂いに素通りできず誘惑に身をゆだねる。巨木を見上げるとよく張った枝のあちこちにドリアンの実がたわわ。
男はまずドリアン売りの前に置かれた山を指差して言った。

「そのドリアン、いくら?」
「一個2万5千ルピア。」
「ん〜、じゃあの木になってるのは?」
「一個5万ルピア。」
「じゃあ木になってる、よく熟れたのをふたつ。」

ドリアン売りはスルスルと木によじのぼって行った。二三十メートルはあろうという高い木の上の方だから、人も実も小さくしか見えない。
「そうそう、その枝のちょっと大ぶりのやつ。いや、それじゃなくてその右。うんそれだ。もう一個はあんたの肩に近いそれ。そうそう、それだよ。」
ドリアン売りは取ったドリアンをひもで縛るとそーっと下へおろし、それから自分も降りて来て、その場で硬い殻を割ってくれた。
果肉はたっぷりとしてコクがあり、その美味しいこと。男は大いに満喫して二個をたいらげ、金を払って去って行った。

その味を忘れかねて、男はさんざ美味しいドリアンの話しを吹聴し、三日後に友人を伴ってやって来た。ドリアン売りはこの前と同じようにドリアンの山を前にして道端にしゃがんでいる。男は友人に言った。

「そこに積んであるのが一個2万5千ルピア。木になってるのは5万ルピア。でも木になってるのが最高なんだ。」
「そうか。じゃ俺も木のほうをやっつけよう。ふたりで四個買おうぜ。木になってるのを四個頼むよ。」

ドリアン売りはまたスルスルと木の上へ。男の友人が下から叫ぶ。
「そうそう、その枝のもうちょっと右のやつ。そう、それだよ。それからあんたの肩に近いやつもいいなあ。それから・・・・・」
男は三日前の状況を徐々に思い出していた。『あれっ、あの位置のはこの前俺が食ったはず・・・・?』
しかし友人にあれだけほめあげた手前、何も言うことができない。
おりてきたドリアンを割ってもらって果肉を口にいれたその友人は目を細めて、
「ほんとにこりゃうまいや。やっぱり木の上で熟れた取れたてのものは抜群だ。あれ?おまえ食欲ないの?こんなうまいものを・・・・」

(2006年6月12日)
「狼の餌食がまたひとり」
都内中心部、ホテルインドネシアの西側に2005年9月30日にオープンしたジャカルタシティセンターは卸売りセンターのひとつ。そのテナントを買った女性小規模事業主が遭遇した不条理な運命は今年3月の現代インドネシア1001景でご紹介したが、またまたえらい目にあった女性のストーリーが語られた。どうやらかの女たちは女であるがゆえに蔑視され、ひどい目にあわされている可能性が強く感じられる。

中央ジャカルタ市チュンパカプティに住むナニはジャカルタシティセンター(JCC)1階の売場を購入した。ところが、工事完了はいつなのかと何度電話で問い合わせても、もう少しだから待ってくれの繰り返しであり、いついつから入れるという管理会社からの連絡など一度も来たことがない。ある日JCCに様子を見に行ったナニは、あまりのショックに愕然としてしまった。自分が買ったはずのブロックE36番には見も知らぬ店が開店しているではないか。ナニがその店主に事情を尋ねたところ、三ヶ月間家賃130万ルピアで管理会社から借りていると言うのだ。ナニは卒倒しそうになった。頭に来て、JCCで店を出すのはもうやめようと思ったが、既に全額支払済みなのでキャンセルすれば相手の思う壺だと考えて思いとどまった。千路に乱れる思いでその日は家に帰り、親族と相談して善後策を練り、翌日管理会社に怒鳴り込んだが、相手の担当者は「うんうん」と話を聞き、「善処して連絡するから」と言っただけでその後何の連絡もなく、無視されているのは明らか。

期限が来て割り込んだ借家人がやっと立ち退き、いざ自分が入る段になって電話がまだついていないことに気が付いた。当初、購入する際にマーケティング担当者との話の中で、電話はすぐに使える状態で売場の引渡しを受けることになっていたはずなのに、電話線は売場の中に来ているのだが電話機を付けて番号登録をしてくれる気配はまったくない。管理会社に聞くと、電話設置は最初から別料金だという返事。セールスマンが嘘を言ったのだろうか?契約さえ取れれば自分はもうおさらばだから、客の喜びそうな条件はいくらでも口任せというマーケティングの世界を知らないわけではないものの、こうまで徹底的に卑しめられればナニの心も苦い思いで満たされる。早くつけて欲しければ49万5千ルピアだと言われてその金を渡したはいいものの、いつまでたっても電話はつかない。電話設置下請け会社の現場作業員に聞いてみたが、会社が円滑金を出そうとしないからお客さんの電話はいつつくかわからない、という返事。こうまで狡猾にテナントを利用して金を搾り取り、サービスなどかけらも見せないこの場所をなんで他のテナントみんなは買っているのだろうか?詐欺の餌食になっているのは果たして自分だけなのだろうか、とナニはいまだに納得がいかない。

(2006年6月8日)
「トゥティのユカタはウツクシイ」
インドネシアの若者の中にもニッポンファンが少なくない。書店へ行けば、山積みされた小型漫画本をぐるっと取り囲んで床に座り込んだチビッコたちが読みふけっているのはたいていが日本製漫画であり、バンドンやジャカルタではニッポンアニメのコスプレパーティも盛んになりはじめている。自動車家電品大国、そしてファッション。お金持ちニッポンに憧れる若年層は多い。そんな若者たちがなにかの縁で大学の日本文学科に学ぶようになり、卒業すれば在インドネシアの日系企業に就職アプローチをかける。そんな道を歩んだのがダルマプルサダ大学を卒業したフロレンティン・ウィディアストゥティ。普段トゥティと呼ばれているかの女は、都内スディルマン界隈にある日系企業に電話オペレータとして就職した。独身時代は青春を謳歌していたが、結婚して子供ができ、東ジャカルタ市ポンドッグデの夫の実家から毎日早朝に家を出てスディルマンに向かい、帰りは夜遅いという生活に疲労感が漂いはじめた。

一方トゥティは大学時代の日本舞踊活動を卒業以後も続けており、かの女は日本舞踊ユニットの会長を務めている。発表の機会があるたびに和服を必要としたトゥティは最初は教官からユカタを借りて出演していたが、いつも借りては恥ずかしいと思い、自分のものを作ろうと考えた。仲間にユカタを持っている者がいたのでそれを借りて模倣し、帯も書物などから得た知識で作ってみた。帯の長さは1.5メートルくらいでいいだろうと考えて作ったが、本物は3.5メートルなければならないと知ってトゥティは「どうりですぐ緩んでしまうわけだわ。」と苦笑い。そのうちトゥティがユカタを作れることが口伝えに広まったため、あちこちから製作依頼が来るようになった。様子を見ていた姑がトゥティに勧めた。「どう?そろそろ会社をやめてユカタ作りに専念したら。」こうして2003年、インドネシアに手作りユカタ生産者が誕生した。需要の大半はダルマプルサダ大学日本文学科の学生たちで、ユカタと帯そして布製手提げ袋の三点セットで33万から45万ルピアのお値段で購入してくれる。ユカタは綿を使い、決して同じモチーフのものをふたつ作らないそうだ。そんな細やかな心使いが購入者の人気を集めている。トゥティは帯のチョイスに幅を持たせ、材料に何を選ぶか、日本式の帯か、背中に結び目を差し込むだけのインスタント帯か、など購入者の希望に合わせている。トゥティの製品に付けられたブランド名は Utsukushii 。

今ではこの事業に4人のお針子が雇用されている。最初は注文を捌くのに姑の家の女中に手伝ってもらっていたことから、規模が拡大したいまその女中は家事お役御免となり、トゥティのユカタ工房で筆頭お針子兼品質管理者として活躍している。その下に三人のお針子がいる。商品は上であげたセットだけではない。和服姿に下駄は欠かせないものだ。最初は都内マンガドゥアで木製の履物を調達していたが、それは日本の下駄とは似ても似つかないもの。結局、木工職人を探してデザインなどを教え込み、いまでは一足6万5千ルピアで顧客にオファーできるようになっている。トゥティのユカタ工房はいまだに小規模家内工業だ。生産規模を増やすためにはもっと広い場所を用意してお針子を増やさなければならない。限られた生産能力しかないためにトゥティはあふれる注文の一部を断っているありさま。そんなトゥティの工房に最近は漫画やアニメの主人公が着ている衣装を作ってくれという注文が増えている。合気道などで使われるハカマの注文が多いそうだが、それはまだこなしやすいとして、サンプルもない漫画の絵の中の衣装を作ってくれと注文してくるヤングたちを前にしてトゥティは頭を抱えている。

(2006年6月5日)
「FINNA(下)」
Finna Huang、1976年12月11日生まれ。かの女は12歳になったときシンガポールの中学校に留学させられた。そしてハイスクールを終えるとアメリカのボストンへ。優等二位でバブソンカレッジを卒業したフィンナはボストン大学でMBAを取得した。アメリカでの学歴に幕を引いてからフィンナは青春の思い出を刻んだシンガポールに戻り、いくつかの会社に勤めてキャリヤを積んだ。そうして結婚した相手がインドネシアで自動車ビジネスを家業とする一族の御曹司。夫もシンガポールでMBAを取得したが、それが終われば家業であるPT Tunas Ridean社の舵取りに没頭しなければならない。こうしてフィンナはシンガポールを後にしてインドネシアへ戻ってきた。
Sekarグループは今でこそ大会社であり、オーナー社長のご令嬢ともなれば苦労知らずのドラ娘というイメージで見られても仕方がないが、幼くして自立の道を歩んだフィンナは違う。ましてや小学校を終えるまで両親と一緒に暮らしていた家庭環境は、金にあかせて子供を甘やかせるようなものではなかった。会社を興して一生懸命事業活動に励む父親とそれを助ける母親の姿がフィンナの身近にあった。父がまだ不遇だった時代、子供に飲ませるミルクを買う金も潤沢になく、父親は蛙を捕まえに出かけてはそれを食堂に売り歩いたという話もフィンナは聞いている。子供は父親の後姿を見て成長するという事例は1980年代のスラバヤにも生きていたのだ。
二児の母親になったフィンナは、ジャカルタで暮らす中で自分自身も事業を始めた。2003年には母親と子供のための医療クリニックであるThe Jakarta Women and Childrens Clinic の運営会社PT Medicare Indonesia を興してその取締役に就任した。また2006年には子供服ブティックChateau de Sable をジャカルタに開店している。事業経営の中で自分は「ただの物など何もない」ことを信念にしている、とかの女は言う。自分の人生の中でただで得られるものなど何もない。幸運が何かをもたらしてくれたなんて信じることができない。自分のハードワークだけが自分に何かをもたらしてくれるのだ。バブソンカレッジを優等二位で卒業したのも、自分は決して頭が良いわけでなく、ただ勤勉だったからだ、と述懐する。自分が世の中で働くことについて、父親の言葉がかの女の座右の銘になっている。『自分自身に役立つことを目的に得られたものは本当の満足を与えてくれない。他人に対して何かをしてあげること、そこで得られる満足はまったく違ったものだ。』

(2006年6月1日)
「FINNA(上)」
kerupuk。いわゆるインドネシア版えびせんべいのこと。クルプッは全国いたるところに地元名物がある。元々は海老を混ぜたものが一般的だったためにkerupuk udangがクルプッの代表格になっているが、「クルプッイコールえびせんべい」というわけには行かない。海老の他にも、魚味のkerupuk ikan, 野菜味のkerupuk sayur/selada, にんにく満点のkerupuk bawang, セロリの香り高いkerupuk seledri, ジャガイモを混ぜたkerupuk kentang, とうもろこし味のkerupuk jagung, チーズ味のkerupuk keju, ちょっと珍しいkerupuk kulitなど、バラエティに富んでいることおびただしい。クリッと聞いて何の皮だろうと驚いた方もいらっしゃるようだが、なにしろインドネシアなので牛や水牛の皮に決まっている。いやいや、びびることはありませんぞ。ビールのつまみなどにはぴったりですから。

ほかのクルプッはドウにそれぞれの素材を練り込んでいるのに対し、このクルプックリッだけは少々違っている。つまりドウに牛の皮を混ぜているのでなく、皮そのものなのだ。えっ、やっぱり気色悪い、ですと?こんなにおいしいものを・・・・・

スーパーで調理前のクルプッを買い、ご自分で油で揚げた経験をお持ちの方は先刻ご承知の通りで、あの小さな乾燥クルプッがあんなに大きく膨れ上がるのには驚ろかされる。日本に戻るときにインドネシア土産を買おうとスーパーへ行くと、パッケージからしてかなり垢抜けしたFINNAブランドをついつい手にしてしまいがちだが、このフィンナって本当に国産品なのだろうか?

スラバヤでシンガポール向けに生海老の輸出業を営んでいたハリー・スシロは1966年に事業の多様化を図ってクルプッウダンの製造をはじめた。小規模な家内工業でスタートしたクルプッウダン事業は国内外のマーケティングが成功して発展の一途をたどる。そして1970年代に入ってからシドアルジョに11ヘクタールの土地を買って生産規模を拡大した。しかし従業員20人、作った海老せんべいは天日乾燥という方式のために月産3〜5百キロが関の山で、結局生産規模をもうワンステップ拡大するには株式会社にしなければ、との意見がまとまり、1976年にPT Sekar Laut社が設立された。そのときかれが考えたブランド名が本人の長女の名前をそのままとったFINNA。生産規模は年を追って拡大し、今では1千人近い従業員を擁し、一ヶ月で6百トンを超えるクルプッの生産量。メインはやはり海老せんべいで、全体の8割を占めている。輸出はオランダやマレーシア、シンガポールや日本など意外にあちこちに送られていて、量は月100〜150トンで総生産量の15%程度とのこと。やはりインドネシアが世界最大のクルプック消費国に間違いないことがそこからも証明される。

クルプックの原材料は、まず全体の7〜8割を占める主原料のタピオカ粉を中部ジャワのパティとランプンから月5〜6百トン仕入れている。次いで一日の使用量が2百キログラムに達する卵を東部ジャワ一円から。そして新鮮な海えび5百キロ〜1トンは東部ジャワや南カリマンタン州バンジャルマシンから調達する。こうしてフィンナのクルプッウダンは輸入材料ゼロ、ローカルコンテンツ百%で製造されている。

この会社は、いまでは多くの事業体をグループ内に抱え、クルプッ以外にもケチャップやトラシなどをFINNAブランドで市場に供給するスラバヤの大規模食品産業に成長している。そんな事業の発展とともにフィンナは成長した。ブランドに名前を残したハリーの長女はどんな人生の軌跡を歩んでいるのだろうか。それは次回に。



この記事は西祥郎さんの提供です

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