インドネシアジャカルタの風俗・社会現象ルポ

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現代インドネシア 1001景
(2007年5月28日)
「コスコサンで用意周到な強盗事件」
東ジャカルタ市ドゥレンサウィッのポンドックラパにある下宿屋に4月29日、新しく入った住人がいる。その男ヌルハキムは下宿屋の他の住人がほとんどみんな出払ってひっそりとなったころ、まだひとり自室に残っているクルニア30歳の部屋にやってきた。

ヌルハキムはコンピュータのことについてクルニアにいろいろ質問し、クルニアはその新しい友人の相手をしてやった。そのうちヌルハキムは自分の携帯電話を出してSMSを発信する。しばらくして男が三人、ヌルハキムを尋ねてやってきた。クルニアがその四人につきあっていると、突然かれらは豹変した。ひとりがナイフをクルニアに突きつけた。別の男もピストルのように見えるものを手にしている。そして、金目のものをしまってある場所を教えろ、とクルニアに命じたが、クルニアが知らないと答えると男たちは怒り出してナイフを振り回した。クルニアはそれを避けたものの左手に怪我をした。男たちはクルニアを床にねじ伏せて電気のコードで手足をしばり、口をガムテープで塞いだ。

そうしてから四人はクルニアの部屋から携帯電話、コンピュータ、バックパックやカバン、パイロットジャケットなどを手当たり次第集めて運び出し、そのあとタクシーを呼んだ。やってきたタクシーに品物が全部入らなかったため、一味はタクシーをもう一台呼んだ。タクシー二台に分乗して獲物を運び去ろうとしていたとき、「強盗だ!」という叫び声がどこかであがり、近隣の住民たちが集まってきた。三人は最初のタクシーにすぐ乗り込んでその場を後にしたが、もう一台のほうは運転手が車から離れたために残ったひとりは群衆に捕まり、そのままドゥレンサウィッ署に突き出された。その強盗一味四人はポンドッコピの下宿に引越しするような話をタクシー運転手にしていたことが運転手の供述で明らかになっている。

捕まった強盗一味のひとりはKTP(住民証明書)を2枚、国家諜報庁の証明書を2枚持っていたことが警察の調べで判明した。2枚のKTPは名前、住所、生年月日などがまったく異なるが同じ写真がプリントされているもの。国家諜報庁の証明書は身分証明書と銃火器所持許可証で、それら四枚の証明書はすべてニセモノであることが明らかになっている。拳銃のように見えたものは拳銃を模したライターだった。

(2007年5月21日)
「解雇された運転手が子供を誘拐」
2007年3月18日、ファルレーは家族で使っていた運転手ヘリを解雇した。雇われはじめた当初は品行方正で態度も良かったが、時間がたつうちに地が出てきたので堪忍袋の限界に来たファルレーはヘリにクビを言い渡した。それなりの手切れ金も渡して後腐れなしと思ったところが、そうは問屋がおろさなかった。

3月21日、ヘリはファルレーの息子アントン9歳が通っている東ジャカルタ市プロマスのドンボスコ小学校に車を運転してやってきた。それも退校時間より早めに。ヘリは学校の事務所に入って家族で出かける用事があるのでアントンを早退させてほしいと学校側に求め、ヘリが解雇されたことを知らない学校側は顔なじみになっているアントンの運転手が言うことを鵜呑みにしてアントンの身柄を引渡した。
退校時間にアントンを迎えに来た家族は、そのときアントンがヘリに誘拐されたことを知った。ほどなくして自宅にヘリから電話が入り、身代金交渉が開始された。のっけから3億ルピアを要求したヘリはファルレーの粘り強い交渉で7千5百万ルピアまで要求を下げた。ファルレーは子供の身の危険を心配してまず2千万ルピアをヘリの口座に振り込んだ。3月24日、ファルレー家の表にオートバイが止まり、後ろに乗っていたアントンをおろすとすぐに引き返して行った。突然オジェッに乗って帰ってきたアントンの姿に家族は安堵の胸をなでおろした。アントンを拘束していた一味がその日かれを解放してくれたのだ、とアントンは物語った。

警察はヘリの妻をはじめ四人の誘拐共犯者を逮捕したが、主犯のヘリはまだ捕まっていない。

(2007年5月14日)
「赤斧ゴロがまた登場」
今年1月12日に東ジャカルタ市のコカコーラ交差点で発生した赤斧ゴロ事件は、その後しばらく新聞沙汰が起こらないまま日数を重ねていたが、2007年4月18日にふたたびコカコーラ交差点で類似の事件が発生した。更に5月8日、ひとりだけで運転していた乗用車が北ジャカルタ市で信号待ちをしていた際に赤斧ゴロの被害を受け、そして5月10日には中央ジャカルタ市スリピ交差点で四人組みの赤斧ゴロが乗合バスを襲おうとしたが路上にいた住民たちの機転で犯行は未然に防がれ、赤斧ゴロ一味のひとりが捕まって警察に突き出された。

5月10日夜9時ごろ、スリピ交差点を通りかかった公共バスに不審な男たちが乗り込もうとしていた。周辺にいた住民たちはその挙動不審な四人の男たちに疑惑を抱いており、四人が次々とバスに乗り込んだあと車内で異様な振舞いを見せたために、かれらを注目していた路上の住民たちから「強盗だ!強盗!」という叫び声があがった。四人の男たちは慌ててバスの外に飛び降りててんでんばらばらに逃げようとしたが、そのうちのひとりを住民たちが協力して捕まえた。男は赤ペンギで塗られた斧を持っていた。この四人組はスリピからグロゴルにかけての一帯で赤斧を手に悪事をはたらく一味であることが既に住民の間で知られている。警察は逃げた共犯者三人を追跡中。

(2007年5月7日)
「入院患者付添い者用コスコサン」
西ジャカルタ市パルメラのコタバンブスラタン通りはハラパンキタ心臓病院やダルマイス癌病院から近い。インドネシアでトップクラスのそれら専門病院に入院する患者はジャカルタ住民だけではない。ジャカルタ以外の土地からやってくる患者は決して少なくないのだ。ジャカルタ外の地から患者がひとりでやってきて入院するというようなことは考えにくい。たいていは家族のだれかが付き添ってくる。そんな付添い者用のホステルが病院施設内にある。エアコン完備、ケーブルテレビ、柔らかいベッド、ソファー、お湯が出るバスルーム。これは完璧に四つ星級ホテルに匹敵する。一泊料金は20〜30万ルピア。もし30日間も入院することになれば、付添い者だけで6〜9百万ルピアの宿泊費が必要になる。患者の医療費だけで汲々としている一家であれば付添い者にそんな贅沢が許されるはずもない。だから付添い者向けのコスコサン需要が生じるのだ。

スタルムン・ビマ52歳はコタバンブスラタン通りの自宅を使って1991年から患者付添い者用コスコサンビジネスを始めた。このコスコサンはひと月50万ルピア。スタルムンがこのビジネスに関わりはじめたのは1984年のこと。町内の隣組長をしていたスタルムンのところに数人の青年男女が訪れた。1〜2ヶ月間だけの下宿を探しているという。話を聞いてみると、かれらはハラパンキタやダルマイスでインターン研修を受ける看護学院生徒だった。コスコサンビジネスのアイデアがそこに生まれた。続いて1991年、インドネシア心臓財団が富裕でない患者の家族用にコスコサンを探して欲しいとスタルムンに依頼してきた。スタルムンの自宅は二階建て総床面積二百数十平米の家屋に3.5x3メーターの部屋を9つ作ってコスにしていた。当時の家賃はひと月10万ルピア。エアコンはないが扇風機を置き、そして台所をふたつ設けた。入居者の自炊用だ。しかし洗濯の設備はない。

スタルムンは入院患者の付添い者たちを家族のように遇した。スカルノハッタ空港への出迎えまでする。入居者の悩みを聞いてやり、適切なアドバイスを与える。そのようなつながりから親しくなった入居者たちには、二週間半額という待遇を与えることもある。

スタルムンがパイオニアになったコタバンブスラタン通りの付添い者向けコスコサンは、今では20軒に増えている。料金は月額50〜70万ルピア。しかし中にはエアコン完備でひと月160〜180万ルピアというデラックス版コスコサンもある。日割り料金を受け付けてくれるところも出現している。それらのコスコサンがハラパンキタやダルマイス入院患者の付添い者向けだとは言っても、そのような制限を設けているわけでは決してない。原則はだれが入居しようと「歓迎」なのだ。

ポンドッカリアンティカにはコスがパビリオン式で28室ある。一番安い料金の部屋でひと月1百万ルピア。ここは非富裕層といってもミドルクラスが対象だ。パビリオンは客間、バルコニー、ダイニング、台所、寝室が揃っており、高い部屋にはテレビが備えられている。駐車場にはたいてい十数台の車が並んでいる。開業以来既に10年が経過したこのコスは、昔は各室に電話まで取り付けられていたが、今はひとつもない。かつて入居者の中に電話を1千8百万ルピアも使った者があった。そうしてそれだけでは物足らず、なんと部屋代まで踏み倒して逃げたそうだ。


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この記事は西祥郎さんの提供です

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