インドネシアジャカルタ最強駐在員・坂井師匠の体験エッセイ

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第84記 2006年12月15日

「私たち結婚します!」と、新郎となる夫の両親に挨拶にくるため、日本に来たのが昨年。あれからちょうど1年、そのインドネシアの女性から私に電子メールがきた。今度は「来月出産します!」と。
 
嬉しいことである。彼女が出産を控えていることもそうだが、実はその彼女とはたった一度しか会っていない、それにもかかわらず、嬉しい連絡をくれたことが嬉しいのである。そもそもは、私の友人である彼女の夫が「妻になる人です」と入籍時に紹介してくれたことがきっかけ。それが一年前。そして1年後に新たな挨拶状が届くとは。おそらく、夫君が「坂井にも伝えてやれ」と、勧めてくれたのかもしれない。それにしても、ありがたいことである。もはや、私はインドネシアを離れて1年と9ヶ月。すでに帰国子女状態ではないし、あんなに毎日使っていたインドネシア語も、かなりヨボヨボな会話しかできなくなってきている。帰国後も仕事でインドネシア語を使っているとはいえ、やはりそれに使われる単語は、業務上の、ある一定の枠内のものが殆どである。生活単語の多い普通の会話からはすっかり遠ざかってしまった。
 
国内にも、インドネシアの友人がおり、そして時々会ったり、電話で話したりするのだが、それでも、日本国内で使うインドネシア語というのは、相手が「外国人」であるインドネシア人との会話だ。駐在時代は、自分が「外国人」であった。外国人は、どうにかその地に馴染もうと、地元の人の話をよく聞こうと、そして自分の気持ちをうまく伝えようと、努力するものである。なので、日本にいるその彼らも、同じインドネシア語会話をしているつもりであっても、かなり日本語に慣れた、そして、日本生活に慣れた上のものだ。結果として、私の方がどうしても甘えてしまう。
 
日本では新政権になり、インドネシアとの経済連携協定も一歩進んだ。これから、新たな分野へも多くのインドネシア人が日本にも就労のために滞在することになる。これまで縁の少なかった日本人にも、優秀なインドネシア人との付き合いが始まることになるであろう。そこにビジネスを見いだす人もいれば、文化交流に力を入れる人もいるだろう。いずれにせよ、日を追ってインドネシアと日本との関係が深まるのは間違いではないようだ。
 
電話や電子メールというツールは、物理的な距離だけでなく、心の距離にも影響を与えている。
 
帰国者たちは今日も、今後展開する日イ関係を想像し、自分でできること、自分がすべきことを滞在時の風景を思いだしながら描くのであった。
第83記 2006年12月1日

インドネシア駐在時代の友人から電話があった。聞けば春に帰国したという。場所は?と聞くと、なんと私の勤務場所のすぐ近く。ならば、と早速、夜に会うことになった。私が帰国して以来であるから、約1年8ヶ月ぶりの再会である。そして食事の場となったのは、最近別の友人から教えてもらった囲炉裏のあるお店。
 
そのお店とは、ご夫婦で営んでおられるとても温かみのあるお店である。囲炉裏では、ご主人がじきじきに素材を網の上に寝かせ、そして出来上がった頃合いを見て「どうぞ」と一言。
 
インドネシアでのレストランを思い出した。鉄板焼きに、焼き肉、鍋にバーベキュー。店員の女の子たちが焼いてくれて、煮てくれて、そして器に盛ってくれて、続いて「はい、ア~ん!」とまではいかないが、どうもあの頃は「早く食べてよ、片付けるの遅くなるから」と言われてるような気もしたり。。。
 
そんな懐かし話もしながら、二人で網の上をつついた。しかしこのお店の雰囲気は最高である。食材と、その調理法にかなり特徴がある上、その店のご主人さんは芸術家。絵も描かれるし、この囲炉裏も自作!内装ではトイレが奥様のデザイン、そして家族で壁も塗ったという。すごい!
 
実はその少し前にも、やはり数ヶ月ぶりに再会した友人と、同じ場所でひと時を過ごした。その方もやはり駐在がきっかけで知り合った人であった。
 
私は、帰国して2年目も後半に入った。自分が不在にしていたことで疎遠になっていた、いろいろなつながりの友人たちと、この1年半ほどで多くと再会することができた。もちろん、まだ全員ではないが。
 
その一方で、これから帰国して来られる、駐在時代の友人と今度は日本で再会できる。また、それと同時進行で、日本で新たに出会った友人を持つこともできる。このお店のご夫婦もそうである。その直前までの何十年もの間、会ったこともない他人であったのに、このわずか、ひと月ほどの間に、深くお互いを知り合う機会に恵まれ、そして互いを理解した。お店の雰囲気がそれを後押ししてくれたのかもしれない、お店のご夫婦がそういう力を持っていたのかもしれない、最初にこの店を紹介してくれた友人がこのきっかけを呼んでいたのかもしれない。
 
連れて来た友人たちはみな、このお店をたいへん気に入ってくれて、喜んでくれた。次に帰国する友人たちも、この店へ案内しよう。
 
知り合うきっかけは、いろんなところに存在する。どれも、不思議のようにみえても、どこかでつながっているようにも思える。インドネシアという、あんなに離れた南の島に住んでいたのに、すぐ近くでお互いや仲間がつながっている感覚、そしてそこから広がる新たな出会い。健康で元気でいられるおかげで、こうして広い地球を自分の世界に取り込める、そんな気がする。
 
帰国者たちは今日も、自分より前にも帰国者が居り、自分より後にも帰国者が居り、そして人は流れ、出くわす対向車や駐車場に集まる車のように、エンジンが動き続ける限り得られる出会いというものに感謝するのであった。
第82記 2006年11月15日

日本ではこの時期に学校などで文化祭やバザーが開かれる。先日、小学校でのバザーの後片付けを手伝った。準備の手伝いもしたかったが、出張と重なり、これには参加できなかった。
 
盛大なバザーが終了した片付け現場に着くと、自主参加の「お父さん」たちがたくさんいた。けっこう協力的な人がいるものだ、と意外にビックリ。そして中には外国人のお父さんもチラホラ。自分たちが子どもであった時代とは違うな、とまたまたビックリ。また、お手伝いのお父さんたちはみな名札を付けているのだが、ある一人の外国人のお父さん、よく見ると、名札にピストルが付いている、いや、名札に「ピストル」と書いてある。つまり、その人の名前が「ピストル」なのだ!「え?ピストルさん?」これまた大ビックリ!
 
そんな名前を付ける親の顔が見たい!と思い、彼に聞いてみた。日本語がかなり流暢な白人の彼は、自分はドイツ人だという。そしてドイツにはそういう名前があるのだという。
 
外国人の名前のうち、日本人にとっては笑ってしまうような名前は少なくない。同様に、インドネシア人にとって笑ってしまうような日本人の名前もいくつかある。たとえば、、、いや、ここでそれを紹介すると、その名前の日本人の方が「ああ、私はインドネシアに行けば笑われるのか、、、」と悩まれると困るので、紹介は避けておくが、一例に「須田」さん、がある。あ、言ってしまった。
 
「すだ」さんは、ヘボン式表記でSudaだが、Sudahと書くと、インドネシア語の「終わり、終わった」の意味になることは、皆様よくご存知のことでしょう。では、名前の中に「suda(h)」が含まれる方は他に、臼田さん、粕田さん、楠田さん、蓮田さん、増田さん、そして安田さん、がおられる。う!スダさん、ま!スダさん、とインドネシア人がとらえるかどうかは分からないが、これだけ挙げたので、須田さんお一人が悩まれることもないだろう。。。いや、たいへん失礼しました。
 
人のことを散々言っておいて、自分はどうなのか?はい、私の名前「サカイ」もインドネシア語の辞書にちゃんとのっていました。「サカイ」は、マレー半島中部山岳地帯のジャングルやインドネシアのスマトラ島に住むセノイ族の旧名。しかしその「サカイ」の意味は、奴隷という意味のマレー半島原住民族へのマレー語の蔑称らしく、最近ではあまり使われないとのこと。
 
そうか、だからか、私の駐在時代に、「サカイさん、民族の名称同じですね」と指摘されたことはなかった。むしろ、「この扇風機と同じですね、サカイさん!」と、手にした「SAKAI」ブランドの扇風機を見せてくれたインドネシア人はいたが。。。
 
帰国者たちは今日も、自分の名前が世界のどこでどのように使われ、意味しているかを意識し、この世におけるの自分自身の存在を深く確認するのであった。
第81記 2006年11月1日

日本は秋、文化の秋、芸術の秋である。多分に漏れず、我が家もそれなりに日本の秋を堪能させてもらうに至っている。身近なところでは、地元の学校での文化祭やそこで行われるコンサートなどだが、そこにもプロの落語家やお笑いタレントが登場したり、また、かなりの腕前が揃う中学生のオーケストラなど、本当に楽しませてもらっている。無料で。
 
そのとある中学生オーケストラの中で、印象に残った一人がいる。コントラバスの少年である。他のメンバーとは何が違うかというと、何十人といる他の中学生演奏家の中でこの少年だけが、ニコニコしていたのである。ふざけていたのではなく、実にキレイな笑顔で演奏していたのである。笑顔で演奏することは、分かっていてもなかなか簡単ではないものだ。しかし、その彼はどの曲の演奏中も、楽譜をにらむこともなく、口を「へ」の字に曲げることもなく、とても優しい表情で自分より大きなその弦楽器を揺らしていたのである。私はとても感動した。
 
インドネシア滞在時、よく大小のコンサートによく出かけた。いろいろな国の人たちが一緒に演奏している姿に触れることができ、音楽に言葉の壁のないことによく気付かされた。家族の都合でたまたまインドネシアに暮らしている人、音楽をやりたくて自らインドネシアに来た人、いろんな人がいるが、音楽が好き、演奏したい、という共通の気持ちでくくられた人たちが情熱をこめて演奏する姿は見ていてとても美しい。それに、日本人以外の、たとえばブロンズの髪の女の子はバイオリンを手にしただけでサマになる、たとえ音は出なくても。
 
そう思うと、日本で見るこの日本人中学生のコントラバス奏者は、また異なる魅力を放った男の子であった。バイオリンは体の大きさに合わせてサイズの大きな楽器に持ち替えて行くが、コントラバスを持つこの中学生は、おそらくそれを手にするにはギリギリ演奏のできる背の高さかもしれない。しかし、数週間後に別のコンサートで再会した彼は、より一層のステージ上のパフォーマンスを披露してくれていた。
 
実に将来の楽しみな中学生である。
 
帰国者たちは今日も、自分の好みや勝手はいくらかあろうとも、将来を担う日本の若者たちには有形無形の応援を続けるのであった。

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